半端な事

7日、何をしたかあまり覚えていない。夕方になるにつれ雨が激しくなっていった。傘たての、誰のものかわからない使われていなさそうな傘を拝借して食堂へ行ったら、出て来たときはなくなっていた。因果応報と人に言われたが、だとしたらもともと傘たてにあった時点で、誰かがどこからか持ってきたものだったのだろうか。

遠方から人が訪ねて来たのだった、そういえば。

 

8日。何かと騒がしい一日だった。要領の悪さが露呈してしまった。頭をうまく働かして仕事を減らすことが難しいタチだから、やり過ぎ、気にし過ぎくらいが良いのかもしれない。しかし自分の半端さに対しては、もはや出る涙もない。帰る頃には食欲もなくなりかけたが、バーガーキングに寄ってバーガー一つ買って食べ、己の機嫌をとった。

続・連休の事

5日、鎌倉方面へ遠足。(遠足・・・?)

東京を朝8時に出て常磐線京急線を乗り継ぎ、金沢八景駅で降りる。バスに乗り朝比奈停留所へ。ここから、本日のメインディッシュである朝比奈切通へ。

新緑の眩しい旧街道を歩く。道の途中、横道が出現し、熊野神社とあるので寄り道。山肌に沿って平坦な道を百メートルほど歩いた場所に、そこそこ立派な神社が現れる。社殿は建て替えられたばかりのようだが、鳥居に刻まれた年は寛政年間で、じろじろ観察していると、見知らぬおじさんが横から覗き込んできて、「これは古いなぁ、すごいなぁ」としきりに驚いている様子なので、こちらも「古いですねぇ」と思わず相槌をうち、そのままなんとなく会話してみると、地元の方で、七つの切通をすべて歩いたとのこと。朝比奈切通は三回目とか。

面白い方だったので、旅は道連れという言葉の通り、一緒に鎌倉方面まで歩いて降りた。降り口で一旦おじさんと別れ、鎌倉まで歩くことに。道幅が狭くて歩きにくかったが、光触寺に寄ったり、ぶらぶらしながら浄妙寺へ。朝比奈切通周辺は、おじさん含めトレッキングスタイルの人しか見かけなかったが、このあたりから小洒落た格好のいかにも観光客然とした人が増えてくる。白旗神社をひやかし、頼朝の墓を参り、浄妙寺へ。浄妙寺は拝観料100円だが、境内を通らねば絶対に行けないピザレストランがある。ヒールを履いた洒落た客の目的地はここらしい。

境内内で地図を見ていると、「また会った!」という声。振り返るとおじさんが。我々がぶらぶらしている間に近場の食堂で昼食を済ませ、ピザレストランにコーヒーを飲みに来たのだという。物味遊山に、一緒に坂を登ってレストランまで来てみると、すごい人でとてもコーヒーを軽く一杯、というわけにはいかない雰囲気。おじさんはコーヒーを諦めた。そのまま一緒に寺を出て、おじさんはまたどこかへ。我々はおじさんが昼食を食べた食堂を紹介してもらい、二度目の別れ。この後は、流石に再開することはなかった。

おじさんに教えてもらった百舌という食堂で海鮮丼を食べ、出発。ますます増える観光客に若干辟易しながら鶴岡八幡宮へ。こどもの日ということで神楽舞が行われていた。実朝が殺された大銀杏はすでにない。せめて階段を降りる実朝と飛びかかる公暁ごっこを楽しみたかったが、降りることが禁止されていた。

小町通りであんみつを食べ、江ノ電に乗ろうと鎌倉駅へ向かうが、なんと混雑で40分待ちというので、急遽ルート変更。大船駅まで戻り、湘南モノレール江ノ電にアプローチ。湘南モノレールは初めて乗ったが、アップダウンが激しく、楽しかった。

江ノ島は想像していたより大きかった。ここも人でいっぱい。島内を巡るエスカレーターがあったが、足が悪くない限り、誰が使うんだろう?というほどの利便性だった。階段を昇り降りしながら島内を歩く。女夫まんじゅうをつまみぐいして、島の裏手に回ると、断層が侵食されて出来た洞窟があり、これも並んだが、中は面白かった。稚児ヶ淵からの夕景には、霞に消えていた富士山が再び浮かび上がり、絶好の撮影スポットとなっていた。高波が幾度も岩に打ち付けられ、波しぶきが舞うすぐ近くで遊ぶ若者たちを、いつか攫われても文句は言えないぞと、苛々しながら見ていた。注意する監視員もおらず、景観のためか防止策もない。田舎の海には注意する地元民がいるが(それも絶滅危惧種だろうが)、都会の海はみんなのもの、裏を返せば責任者不在。

その場を離れ、境内の階段を降りる帰り道、担架を担いだレスキュー隊が登ってゆくのとすれ違う。島の入り口にレスキュー車が4台、救急車が2台止まっていた。江ノ島と陸を結ぶ橋から振り返ると、すっかり暗くなった海岸に、懐中電灯の明かりと、海上自衛隊かどこかの船の赤いライトが明滅していた。嫌な予感は当たったのか。ニュースを見てみたが、特に海難事故の報は見つけられず。

 

6日。よく寝ました。

連休の事

2日は普通に夜まで働き、夕飯は家の最寄駅近くにあるインドカレー屋に入って済ませた。想像していたよりナンが大きく、付け合せのインド風餃子2ツまで注文してしまっていたものだから、胃袋がはちきれんばかりになって、餃子は1ツ、紙にくるんで持って帰った。その後、食べる間がなく、結局腐らせてしまったが。

 

夜が明けて連休後半。

3日は知り合いと秋葉原へいく算段だった。メイドカフェなるものを体験するためだ。しかしその前に入谷のイベントスペースで、ダンスから朗読から奇術まで何でもありの舞台を見た。京都ではほとんど見かけなかった芸の数々(偶々縁がなかっただけの可能性もないわけではないが)、半ば連れられるがまま行った場所だが、思いがけず面白かった。王道は良いものだと思った。王道あっての横道、という目で京都に思いを巡らせる視点で臨むべきだったかもしれないが、知らないうちは目がないのも仕方ない、のだろうか。言い訳がましくて、そんな言葉を考えている自分が嫌になった。

勘が良ければ遠くに居ながらも理解できるのだろうが、この歳になってやっと自覚したところによると、自分はあまり勘が良い方ではない。もっと早くに東京に出るべきだったと、つらつら考えた。

メイドカフェはそれなりで、こちらは良くも悪くも想像していたより普通の空間だった。電気屋街、神田明神肉の万世、と歩いて解散。

予報されていた雨は降らなかった。

自宅から上野まで自転車で二十分とわかった。

 

4日、風が強かったが晴天。

ほぼ一日中、布団に転がって、小説を読むかうたた寝するかのだらだらした時間を過ごしているうちに夕方になった。日が暮れかかる頃になって、そういえば明日小旅行に行くのに資金がないことを思い出し、自転車で曳舟まで走って郵便局へ。スカイツリーの電飾は毎日変わるようで、なかなか飽きない。曳舟のスーパーに寄ってみたら、水菜と小松菜が破格の安さであったので買った。茄子の煮物も買ってみたが、普通の味だった。岩手の南部せんべいも買った。これは文句なしに好きな菓子だった。夕飯は作り置きのタイカレー。そろそろカレーにも飽きてきた。

ギロチンの事

職場で、昨日の小塚原刑場の話を同僚のフランス人にしてみた。

「刑場みたいなものは日本じゃ隅の方に追いやられる。南千住は江戸の端っこだったみたい」

するとフランス人がいう。

「そうなんだ、フランスじゃギロチン広場はめちゃくちゃ街の中心にあるよ!」

なるほど。ヨーロッパはだいたい街の中心に処刑場があるらしい。確かに、ルイ十六世やマリーアントワネットがギロチンにかけられている場面を思い出してみると、だいたい頭に浮かぶのは百科事典とか社会の資料集で見た絵だが、周りに大勢の見物客がいるし、郊外という雰囲気はない。死の忌み事やケガレとしての側面より、それを勝ち取った事のほうが意義があったのか。となると、江戸時代以前の日本は、ギロチンの時代のフランスに近かったんではないかと想像する。単純に、牢屋が街の真ん中にあったから、利便性のために処刑場も近くに作ったんだよ、ともフランス人は言っていた。

彼があまりにあっけらかんと処刑について語るので、昨日すこーし感傷的になってしまった私の気持ちはなんだったんだ、と思った。ただそこに生まれたからという理由で暮らし続けているだけのわりに、すっかり日本人が染み付いていることに驚く。

そんな物騒な話をしながら職場を出て、職場の最寄り駅まで歩いて帰った。そこから25分ほど電車に乗り、マンションまで15分ほど歩く。上京してからこっち、何かと歩いてばかりなので、少し痩せてきたのではなかろうか。

しばらく、通勤には自転車を使わないことにした。

東京に住んでいる事

二週間前から東京に住んでいる。

といっても住んでいる場所は東京の東の端、隅田川に近い下町も下町といった感じの一画。ゆえに別に、所謂キラキラした都内暮らしではない。

ほとんどの上京者は私と同程度か、もう少し華やかな程度の都内暮らしだろう。

少し歩けば隅田川に出られ、スカイツリーを眺めながら散歩出来る。

隅田川沿いの道は昼でも人通りは多くなく、夜もジョギングするランナーが数人行き交うのみで、やや寂しいくらいだ。極めて静かな土地だが、実際住み始めるまで、東京にこんな静けさが存在するとは想像できなかった。私の想像力は貧困だ。

ゴールデンウィークの二日目。雲一つない晴天で無風という好条件の中、特にやることもないので、新しく買った自転車で言問橋まで出てみようと思い立った。自転車を漕ぎながら隅田川沿いを走っていたら、突然どこからか、軍歌のような歌が流れてきた。あれ?と考える間もなく音量はみるみる大きくなっていく。音源はどこかとキョロキョロ首を回して探したら、向かいの首都高を、拡声器を上に乗せたどこかの組織の宣伝カーが、けっこうなスピードで走ってくるのが見えた。録音が古いせいで、音がブチブチ切れるので、歌の中身はほとんど聞き取れない。しかし、このような歌は、七十数年前たしかに隅田川に響き渡っていたはずだと考えた瞬間、ふと戦時中にタイムスリップしたような、不思議な錯覚に陥った。青天と軍歌の取り合わせに、白くそびえるスカイツリーは、なぜだか妙に馴染んでいた。宣伝カーはものの数十秒で、千住方面へ走り去っていった。言問橋を越えると途端に観光客が増えて、感傷的な気分の入り込む隙はなくなった。

待乳山聖天に登ってみたのち、山谷堀公園を吉原方面に向って北上した。濹東綺譚で予習済みの橋が順に出てくる。一部は、橋の親柱が古いコンクリートのまま残されている。昭和6年築らしい。東京の街歩きは、コンクリートの見た目で時代の判別がつくようになれば、もっと楽しめそうではある。

その日は山谷から吉原に行って、弁天池の観音様を拝み、たこ焼きを買って帰った。次の日、今日だが、また自転車で、TX浅草駅、三ノ輪駅、南千住と回って、各所の寺や神社を巡ってみた。期せずして墓場巡りのようになった。

浄閑寺の門に、昼から丁度荷風の法要と講演会をやっているとの張り紙があった。私は今日がまさか命日だと知らずの訪問だった。受付時間も過ぎていたし、図々しく入れてくれと言う気分でもなく、寺の裏手の碑の写真を撮るだけ撮って帰ることにした。

浄閑寺は遊女の投げ込み寺と呼ばれていた。遊女を弔う大きな地蔵があり、髪飾りなど供えてあって、自分も何か置こうかと思い鞄を探ってみたら口紅入れを見つけた。しかし友人からの貰い物で、使いさし。地蔵の前で数分、女なら逆に嫌がるのではないかと余計な気を回したり、友人にも悪いし、まだ使うし、などとけちくさいことを考えたりしたあげく、結局何も供えなかった。地蔵の向こうの吉原の女たちは呆れて笑っているはずだ。

南千住には刑場跡があった。首切り地蔵、ダイレクトな名前。ここで累計二十万人処刑されたかと思うと、数が多すぎて逆によくわからなくなってくる。私に霊感はないが、もし幽霊が居たとして、住宅事情が大変そうだ。身を寄せ合っても到底敷地内には収まりきらないので、霊感のある人がこの場所を見れば、高層マンションが建っているかもしれない。

一通り回ってみて、南千住がどうやら江戸の東の端だったことを理解した。

京都の昔の西端は西院で、賽の河原の「さい」でもあるらしい。都市は端に向かって、遊郭、刑場など、はみ出し者の居場所が作られる。はみ出し者の居場所の中でも、また細かな上下関係は作られる。近代以前は、外に外に果てしなく広がっていったその先が異界とかあの世と呼ばれる世界に繋がった。

現代は、あちら側がなくなってしまったので、異界は現実世界にある。と思う。